プロローグ

1970年。御津電子は、岡山指月様からコイルの巻線仕事を受注したことから始まった。創業者の人見司郎が、御津の土地を選んだ理由の一つに、岡山指月様に近かったということもあります。

パートさんを集めて、手作業の仕事をこなす。御津電子はそうやって創業していきました。

第一章 新たなる船出

1976年。当時東京で大学生だった先代の人見和夫は、大学に休学届を提出して岡山への帰郷を決意する。

『もう仕送りできないから』
創業者の人見司郎にそう言われたのがきっかけだった。人見和夫は悩むことなく即決で岡山に帰ることを決断する。『わたしが御津電子を立て直す』その想いに駆られて、無心で荷物をまとめ、東京から岡山まで軽トラを走らせた。

意気込んだ人見和夫は、まずは会社の数字を把握することから始めた。当時売上は100万。皆さんに給料をお支払いして、残ったお金は0円。『えっ?お金ない』
ここからが全ての始まりだった。

家族にご飯も食べさせられないと感じた人見和夫は、人見司郎に働きに出るように指示。人見司郎はサラリーマンとしてお金を稼ぎ、人見和夫は会社の立て直しを図る。
立て直すために、一番に取り組んだことは、売上を上げること。売上が上がらないと、自分の給与はもちろん、会社にお金が残らない。売上を上げるためには、お客様に満足していただかなければならない。

『明日までにやっといて』『今から持ってきて!』
お客様から言われる、どの会社も出来ない無理難題をこなす日々。必死だった。夜中と朝とか関係ない。とにかく必死にお客様の満足を追求する。じゃないと売上が上がらないから。黒字に出来ないから。

そうやってお客様の要望に応え続けると、会社はあっという間に黒字化。サラリーマンをしていた司郎を呼び戻し、御津電子の新たなる船出が始まった。

第二章 牛窓工場創業

『プラスチック事業をやってほしい』
プラスチック事業をスタートしたのは、当時メイン顧客だった立石電機(現オムロン)様からの言葉がきっかけだった。

会社を黒字化し、顧客満足を追求し続ける御津電子は順風満帆だった。立石電機から、山のような仕事を依頼されてしっかりとこなしていたからだ。

そんなある日、立石電機の工場長から呼び出しを受けた人見和夫。
『プラスチックの検査業務は、いつか仕事はなくなる。プラスチック射出成形事業をやってみないか?』
当時の売上1,000万の中で、2,000万もする成形機を購入し、やったこともない射出成形事業を開始するか?という打診だった。
人見和夫は即決だった。『やる!』立石電機に儲けさせていただいた。そのお客様が、困っていらっしゃる。だとしたらやる以外にない。そんな想いだった。
仕事が終わった22時から、立石電機の工場に研修に行き、夜中の2時まで成形の段取りをする。次の日6時に起きて、通常の業務をこなす。こうやって射出成形技術を取得して、2,000万の緑の成型機をようやく購入することに成功する。

やがてお客様から射出成形部品の発注を頂き、無理難題をこなしていく先代。そして騒音問題もあることから、24時間無人稼働が可能な牛窓に工場を作ることを決意する。

第三章 中国への進出

『御社への発注量は半分以下になるから』
えっ???当時売上の大半を占めるオムロンから言われた一言が全ての始まりだった。

コイル巻き、プラスチック製品の検査、軽作業など、お客様にとっても都合が良く、いつでも呼び出しに応じて、無理難題をこなすその姿勢が買われて、どんどん仕事の依頼が舞い込む。

牛窓工場を立ち上げ、24時間かつ夜中の無人稼働に成功し、飛ぶ鳥も落ちる勢いだった御津電子。

そんな順風満帆なある日突然、人見和夫はオムロンに呼び出された。何か胸騒ぎがする…
『オムロンは中国に進出するから。御社への発注量は半分になる。中国へ一緒に来ないか?』
会社の売上が半分になり、かつ中国に進出しないか?という2つの難題が、人見和夫に降りかかる。
でも、即決だった。
『中国に行く。日本は顧客開拓をする』
オムロンにご飯を食べさせてもらってきた。そのオムロンが言うことなら、恩返しも含めて中国に進出しよう。日本は顧客開拓する以外、何も道はない。

そこに戦略は何もなかった。ただ、お客様の要望に最大限応えるという、その想い(方針)だけで動いていた。右も左もわからないまま中国に進出。法律も、言葉も、人脈も、何もない中からの船出だった。

第四章 四国工場創業

『四国精機の仕事を引き継いでもらえませんか?』
当時御津電子のお客様である四国精機の渡邊正広さんから、人見和夫へ電話が鳴った。それが全ての始まりだった。

中国の会社は汪に任せて、日本では顧客開拓に成功し、次の一手を考えていた人見和夫にある日突然電話が鳴った。

『四国精機が倒産します。人見社長、四国精機の人を引き連れていくから、仕事を引き継いでもらえませんか?』

即決だった。『やる!』。顧客開拓をしている中で、好意にさせていただいていた四国精機の工場長が、困って電話してきた。いままで大変お世話になったし、一緒に仕事をさせてもらっているから仕事っぷりがよくわかる。

困っているなら、手を差し伸べる以外何もない。

四国精機のお客様である三菱電機様の関係もあって、数ヶ月でものづくりを出来る体制を作らないといけない。

投資額を決め、工場を決め、採用を決め、設備を購入し、突貫で始まった。それが今の四国工場である。

まとめ 人見和夫より

振り返ってみると47年はあっという間でした。お客様の満足を追求し続けること。これが生き残るための最善の策と思い、必死に走ってきました。

こうやって振り返ってみると、お客様の満足の追求こそが売上を上げることなんだと思います。

売上を上げた中で、それをこなしてくれた従業員様には、心から感謝と敬意を示したいと思う。今までついてきてくださって、ありがとうございました。

次世代にバトンを渡しましたが、わたしのこの想いを、少しでも御津電子に残せたらと思います。